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楠木繁夫
楠木繁夫
(くすのき しげお、1904-1956)
本名黒田進
高知県
ツル、タイヘイ、コロムビア、テイチク、ビクターなど
1924年(大正13年)、東京音楽学校(現:東京芸術大学)師範科に入学。本科の声楽部に進み、「城ヶ島の雨」の作曲家・梁田貞に師事した。学生時代は、同級の高木東六らと行動を共にしていたが、1928年(昭和3年)、学生運動で校則などに抗議したメンバーに入っていたため、高木らとともに除籍処分となった。 退学後は様々なレコード会社で吹き込むがヒット曲に恵まれなかった。1934年(昭和9年)にテイチクの専属になる。当時のテイチクのトレードマークであった楠木正成にあやかり、楠木繁夫という芸名を名乗った。1935年(昭和10年)には、古賀政男とのコンビで、「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「緑の地平線」と大ヒットが続き、一躍大ヒット歌手となる。その後も、「女の階級」「のばせばのびる」「啄木の歌」「人生劇場」とヒットを続けるが、昭和13年にビクターに移籍したあと、これといった曲がないまま燻り続ける。
1943年(昭和18年)にコロムビアに移籍し「どうじゃね元気かね」を吹き込む。1943年(昭和18年)に三原純子と結婚。太平洋戦争中は「マニラの月」「戦果はラジオで」「轟沈」「敵白旗を揚げるまで」など、多くの軍歌・戦時歌謡を吹き込んだ。
戦後は、「トンコ節」「紅燃ゆる地平線」などのヒットもあったが、妻や自らの病気などにより一線から退くようになった。1956年(昭和31年)12月14日、自ら首を吊り52歳で死去。妻と自分の将来を悲観しての自殺だといわれている。